昭和41年11月15日 夜の御理解



 先日、鹿児島の行徳先生のところの、70年の記念祭に若先生がおかげを頂きましてから、ご直会に頂いて帰っております、やっぱりあの行徳先生のお書きなった本で、「おかげの道をたずねて」と、「ある日の御結界から」と言う様な、この小さい御本ですけれども、頂いて帰っております。今日ここで私一通り読ませて頂いてから、もう実に要領よく実に金光教の信心を、説明しておられるのでございますが、お互いが分かっておるようであって、分かっておらず。
 同時にまたこれを本気で身につけていったら、おかげを受けられることを私、読みながら思ったんですけれどもね。その目次ですね、それがこう言う様なふうに分けて、説明して、説明といえば「ある日の御結界から」というのですから、あるご信者さんに対して、問答ふうにお伺いをする、それに対して答えると言う様な、まあ実に誰が読んでも、信心頂いとる者ならなお有り難い。信心頂いていない者でも、金光様の御信心が、この成程と合点がいくように、書いてございますですね。
 それに目次、はい、ようと読んでみましょう。「欲、願い、おかげとは何かおかげ頂く信心、健康のおかげ、商売、金、家系の助かり、御取次、祈り、神、教祖、教団、拝み方、祭典、お供え、御神米、運を開く、ね、開運、運を開く」と言う様な、これだけの目次の沢山ありながら、しかもそれで一通りお道の信心が、有り難いということが分かるように説明してあるんですね。本当これだけの御本ですけれど。私はこれを読ませて頂いてから、先ほど先生と話したことですけれども。
 これは家の今度の開教式か、又は何かに記念のご直会の何じゃ作らなければならんなら、是と同じものを一つ行徳先生にお願いしてですね、お許しを頂いてから、まぁここの是には開教満70年記念出版と書いてあるから、ここんところを勿論行徳先生がお書きになったお書物を、まあ椛目のお広前で記念に出版したと言う様に、ここんところを変えて、お願いしようかと言うて、まぁ話した事でございますけれどもね。それに私一つ目次の中に、私がもう一つ添えたいと思った事はですね、御霊様の事です。
 これに御霊様のことが書いてないんです、ね。今日も実は熊本からお願いに参りましてですね、私最近ですね、あの御霊様関係のことを何かもう御霊様のお祭りすりゃあもう助かるごたる思い方をしておる人達、ね。御霊様の何か苦しんでござるとを助ける方法を、何かお祭りによってすれば、自分達に幸運がもたらされてくると言った様なですね、そういう思い方で、御霊様の事が願いに来る人達があると、もう何かいやでいやでたまらん気がするんですね、最近私は。
 それを私がいつも言っている様にね、それは成程御霊様の中には助かった御霊様もありゃ、助かってない御霊様もありますよ。ですからそれはお互い人間が助かっておる者もありゃ、助かってない者もあるようにです、ね、お取次を頂いておかげを頂くと言う事は有り難いけれどもですね、ただお取次を頂いたから助かるのじゃないです。もうこれは私のもうこの、これいっぺんだおしで、私がいいんだと思う事はですね、もう問題は私が助かり、私の一家が助かりゃ、大坪の家の御霊は助かると言う事です、ね。
 私が助かった心で、又はいよいよ助かりたいと願う、ね、為には本気で改まりもしなければならんと、磨きもしなければならんと、ね。そういう願いに燃えるそういう心でです、御霊様のお祭りを大事にすると、御霊様をお救い申し上げれる働きというものがお取次によってなされていく時にです、御霊様が助かられるのであり、又私共の上に教祖の神様の亡くなった時の、言わばお葬式も大事にせんならんけれども、それよりもです一番大事にしなければならんのは、後々のお祭りを大事にせよと仰っておられます。
 だから後々のお祭りを、なら式年祭がきたから、式年祭にその賑やかにそのお祭りを仕えたから、御霊様が喜ばれるのじゃないと私は思うです。問題はそれだけの賑々しいお祭りでもできるように、助かっておると言う事がです、神様の喜びでありその喜びがです、ね、その喜びの心をもって、こういうお祭りでも出来る様になったという、そのおかげを頂いておるその心で、どうぞ御霊様のお徳のいや上に、御霊様の御霊の徳もいよいよ進まれますように、御霊様の助かりを祈り願わして頂く。
 私共、ね、子孫の者がです、そういう心がけにならして頂くことを神様が願われる。その神様の喜びが、御霊様もまた助かっていって下さる。もう問題はだから御霊様と私とのいうものはです、これはもう私が、言わば御霊様なら一番末席におるのが、私だということになるんです。皆さんでもそうです。私はお国替えしたら、いわゆる御霊様の末席に私があけになるのですから。もう繋がっておるのです。だから私が助かるということは、御霊様も助かりなさるということ。
 同時に私共はそう言う様な、助かりを求めて日々信心の稽古をさしてもらうということはです、ね、どういうあり方にならして頂かなければ、助からないかと言った様な事を、これに説明してあるんです、このご本に、ね。ですから私共が本当にまず、私自身の助かりを、本当に求める為に改まりもさしてもらう、磨きもしよう、有り難いお話も頂かせて頂こうと、ね。
 そしてその有り難いという心、助かりたいとやむにやまれん思いで、願うそういう心で御霊様の、ならお祭りさして頂いてこそ、本当、御霊様がお喜びになるのであり、御霊の助かりとは私はそう言う様な事だと、言う様な事をですね、私はもしこれに付け加えることを許されるなら、そんなことを付け加えて、ね、これは神様のことを思うならば、やはり御霊様のことも大事にしなければなりません。
 御霊、神様の一切を信じるなら、やはり御霊様の生きた活動とか、実在を御霊の世界の実在を信じんわけにはまいりません、ね。ですからその御霊の世界をです、何か知らんけれども、御霊様さえ助けるお祭りをすりゃあ、もうそういうこっちゃいかん、幸せになれるとか、病気が治るとかと言った様なです、間違った考え方を、それを思い込んでおる人があるです。
 今日、熊本から参って来とるなんかも、それなんです、ね。だからそう言う事じゃない、あなた自身が助かる事と、あなた一家が本当に助かる事の為に、日々信心の稽古をさして頂いて、その助かりたいという、やむにやまれん心で式年祭をなさい、お祭りをなさい、地鎮祭をなさい。そこから私共も助かりゃ、御霊の助かりだけでなくてそういう雰囲気をです、天地の親神様は喜んで下さらん筈がない。だから御霊も助かっていく、なら私共も助かって行くんだと言った様な、説明をさして頂いたんですね。
 この御霊さんのお祭りの事についてから、古賀先生の従兄弟になる村上さんというて、いつもここに手紙で毎日お届けする人があります。あの人中々一つのそういう、まぁいろいろな神様に、お知らせ頂くと言った様な、まぁ霊能的なものがあるんです。ですから御霊さんだけの事をくどくど、いつも来て言うんですけども、実を言うたら、もうそげなこっちゃなかがの、もうあんたが助かりさえすれば御霊が助かるっち、もう一遍に言いたいですけどね、どうもそこが卒業しきれないでおるような感じです。
 その御霊様のお祭りのことについてもです、あの神様にお願いさして頂きよったげなで、御心眼に落花生って頂いた。その人に( ? )そのことも一緒にお届けしていくちゅって、今日言うんですよ。だから私が申しました。「落花」とは花が落ちると書く。花が散ることなんだと。ね。それは私共がここに生きておるということが、まぁ私共がなくなるということは、言うなら花が散るようなもの、ね。
 けれども散ると言う事はです、私が亡くなると言う事は、言うならばあの世に生まれると言う事「落花生」の「生」ちゃあ生まれると言う事、ね。この世では散ったけれどもあの世に咲くのであり、あの世に生まれるのである。しかもそれはもう一滴の水が谷川に落ちて、川に落ちて大海に落ちた入って。しかもその大海の水が、まぁ言うならば、こう蒸発して又もとの雫に帰って来る様に、もう生々流転という言葉がありますね。そう言う風にして、私共はもう生き通しに生きていけれるというのである、ね。
 ですから、その生き方がです、私共人間でも生き方が、信心によって生きる人と、ただ信心のなしに生きる人と。有り難い心で生きる人と、不平不足で生きる人があるように、ね、その生きられ方の生き調子というものを、私共がまず整えて、その整えさして頂くうちに、喜びを天地の親神様がみそなおし、その喜びをもって御霊様の、言わば幸せを私共が願わせて頂くというところに、その御霊様が助かっていけれるのであって。
 この御霊ば助けたから、この御霊ば、そのうしたから自分達に、もう何か良い事が起こって来ると言った様な、思い方は出来んですよと言うて、私説明したんですけどね、確かに、落花生なんです、ね。ですからあの世にこの世を終わって、あの世に行くということは、言うならば生誕の、まぁ言うならば、お祝いをしても良いくらいな事です、ね。今日そこに生身をもっとりますから、生身との別れということが、悲しいことではありますけれどもです、ね。そう言う様な事をひとつ、私は分からなければ。
 お道の信心の本当な事は、今日行徳先生の書いておられます、このお書物を読んでです、金光様の御信心が分かると言う事と同時にです、ね、御霊という私共が一番、生きるとか死ぬとかという、一番大事な事柄もです、信心ではただ今私が申しましたような、落花生と言う様な事でございますから、そこん所の安心を頂く事を死生の、私は安心を生むと言う事だとこう思うです、ね。いわゆる大きな悟りを開くとこう言うが、ね、そういうひとつの死生観、ね。言う様なものを私共は開かして頂くためにです。
 神様をいよいよ分からなければいけん、分からなければいけん為に、例えばここに行徳先生が書いておられる様な筋道立った信心をさして貰って、本当にその助かる事の為には、私共がこうあらなければならないこういう思い方にならなければならないと、言う事を教祖は教えておられるのでございますから。もう生死を通して助かって行く事の為に、信心をもっと追求していかなければならん。同時に私共の死後の安心と言った様なものもです。私共がこの世に助からして頂いて。この世で喜びの心を開かして貰うて。
 是をこのままあの世に持ってあちらに誕生すると、言う様な事が信心をさして頂ける様になったら、死も又怖いというものではないと言う様な、信心の一番究極の所を分からして頂く事が出来るだろうと。そう言う様な意味合いで沢山こう説明がしてございますが、この御霊の関係の事だけが是には書いてない様に思うんです。だから御霊の事を切り離す訳には参りませんもう一番大事な事ですから。ですからもし許されるなら私はその事を少し付け加えてから、今度の記念のご直会にしたいと言った様な事を考えたんですけどね。   どうぞ。